軽くて、浮遊する建築へ——シンプルさの中に宿る多機能性
都市という視点から
都市を上から眺めてみる。そこには住宅があり、緑があり、病院やオフィスがある。公園があり、道路があり、学校がある。それらを並べたとき、住宅は緑と同列の、都市を構成する「一要素」に過ぎないことがわかる。
そのマクロな視点に立ったとき、問われるのは個々の建物の質ではなく、もっと根本的なことだ。「この場に、何があるべきか」——「作る・作らない」も含めた選択が、建築家に問われている。
日本はすでに空き家が溢れている。人口は減り、建物だけが残っていく。飽和した既存ストックの中で、新たに建てることの意味を問い直さなければならない。新築か、既存建物の活用か。その選択の前提として、「場のあり方」そのものを考えることが、今の建築家に求められていることだと思う。
機能が溶けていく
かつて、建築の用途は明確に分かれていた。
住宅は住む場所、オフィスは働く場所、商業は買う場所。その区分が建物の形を決め、設計の前提を作っていた。しかし今、一つの空間で住む・働く・学ぶ・売るが同時に起きている。機能のレイヤーが横断的になり、用途の境界が溶けている。技術革新がもたらした、建築の根本的な変化だ。
機能は、建築の外側へ離れていく。情報、コミュニケーション、商取引——建築がかつて抱え込んでいたものの多くは、デジタル空間へと移っている。AIの進化がその流れをさらに加速させるだろう。物理的な建築が担うべき機能は、これからも減り続けていく。
建築は「箱」でいい、という世界観がある。それは諦めではなく、一つの思想だ。機能を手放した建築は軽くなる。固定された用途を持たない建築は浮遊する。フレキシブルな器の中に、その時代の機能が流れ込んでくる。
箸という思想
かつての師、建築家・大江匡からこんな話を聞いた。
フォークは刺すための道具だ。ナイフは切るための道具だ。それぞれが一つの機能に特化している。しかし箸はどうか。あの二本の棒は、挟む・すくう・切る・混ぜる・置く——無数の使い方に応じることができる。その多機能性は、機能を付け加えることで生まれたのではない。究極のシンプルさの中に、最初から宿っていたものだ。
建築も同じではないか。特定の用途に最適化された建築は、フォークやナイフに似ている。その用途が消えたとき、建物は死ぬ。しかし余白を持つシンプルな建築は、時代とともに使われ方を変えながら生き続ける。簡素化とは、多機能性への最短経路なのだ。
ただし、シンプルは容易に成立しない。箸があのシンプルな形でありながら多機能に機能するのは、削り出しの精度が極限まで追求されているからだ。建築も同じで、シンプルな空間を成立させるためには、素材と素材が出会う接続部、空間の境界、構造が表れる瞬間——そこに宿るディテールの精度が、同時に求められる。シンプルさとは、究極のディテール精度に支えられてはじめて成立するものだ。
建築にしかできないことへ
機能を手放し、軽く、浮遊しながら——しかしそのぶん、構築の質を極限まで問い続ける。建築不要論ではなく、建築にしかできないことへの問い直し。デジタルとAIの時代に、建築家の仕事はそこへ向かっていくのではないだろうか。