建築における「間」——日本的な空間感覚の正体
見えないものを設計するということ
建築家として図面に向かうとき、私が最も神経を使うのは、実は「何もない場所」をどう描くかということです。壁の位置、窓の大きさ、天井の高さ——これらは数値として明確に表現できます。しかし、その数値の「あいだ」に生まれる何か、その気配のようなものを図面で伝えることは、いまだに難しいと感じています。
日本の建築を語るとき、「間(ま)」という言葉が頻繁に登場します。茶室の「間」、数寄屋建築の「間」、現代住宅における「間」。しかし、この言葉ほど曖昧に使われ、そして曖昧なまま理解されているものはないかもしれません。
私はKAWAZOE-ARCHITECTSを主宰しながら、この「間」という概念と日々格闘しています。クライアントに「間を大切にした設計です」と説明しても、それが具体的に何を意味するのか、伝わっているのかどうか。今日は、この捉えどころのない「間」の正体について、実務者の視点から考えてみたいと思います。
「間」は寸法ではなく、関係性である
よく誤解されることですが、「間」は単なる距離や寸法のことではありません。6畳間、8畳間という言葉があるため、「間」を面積や広さと同一視してしまいがちですが、本質はそこにはないと私は考えています。
先日、ある住宅のリノベーションを手がけました。築40年の木造住宅で、南側に続き間の和室が二部屋ありました。一部屋は6畳、もう一部屋は8畳。襖を開け放つと14畳の大空間になる、昔ながらの間取りです。クライアントのご要望は「もっと広く感じられるようにしてほしい」というものでした。
ところが、現地調査で私が感じたのは、この空間は数字以上に「広い」ということでした。問題は広さではなく、その広さが活かされていないことだったのです。
天井を見上げると、蛍光灯の無機質な光が空間を均一に照らしていました。床の間は物置と化し、縁側には洗濯物が干されている。かつてこの空間が持っていたであろう「間」の感覚が、生活の澱のように堆積したモノたちによって失われていました。
私が提案したのは、面積を変えずに「間」を取り戻すことでした。照明を間接光に変え、床の間を本来の姿に戻し、縁側と庭の関係を整理する。結果として、クライアントは「こんなに広かったんですね」と驚かれました。寸法は何も変わっていないのに、です。
「間」とは、要素と要素のあいだに生まれる関係性の質のことなのです。
西洋の「空間」と日本の「間」
建築を学んだ方なら、「スペース(space)」という概念をご存知でしょう。ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエが追求した近代建築の「空間」は、三次元の幾何学的な広がりとして捉えられています。壁、床、天井という境界によって囲われた「容れ物」としての空間です。
一方、日本の「間」には、この幾何学的な定義に収まらない要素が含まれています。
たとえば、時間の感覚です。「間が悪い」「間を取る」「間に合う」——これらの表現からわかるように、「間」には時間的なニュアンスが強く含まれています。空間を体験するときの時間の流れ、そこに身を置く人間のリズム、季節の移ろいといった時間軸が、「間」という概念には織り込まれているのです。
私が設計する住宅では、この時間性を意識的に取り入れることを心がけています。朝日が差し込む角度と夕日が差し込む角度は異なります。その違いを設計に活かすことで、同じ部屋が朝と夕で異なる表情を見せる。そうした時間的な変化を許容し、むしろ歓迎する設計こそが、「間」を生み出すのだと考えています。
余白がつくる緊張と弛緩
書道や日本画の世界では、描かれていない部分——余白——が作品の価値を大きく左右します。建築における「間」も、この余白の概念と深く結びついています。
しかし、余白は単なる「空っぽ」ではありません。そこには意図があり、計算があり、時に息苦しいほどの緊張感があります。千利休が設計したとされる茶室「待庵」は、わずか二畳という極小空間です。この狭さは、単に材料を節約するためではありません。限られた空間の中で、一期一会の緊張感を最大化するための余白なのです。
現代の住宅設計において、私はこの「余白」の考え方を応用しています。たとえば、リビングとダイニングを緩やかに分ける方法として、あえて「何もない場所」をつくることがあります。家具も置かない、飾りもしない、ただ床と天井と壁があるだけの場所。一見すると無駄に思えるこの余白が、実は空間全体にリズムを与え、隣接する居場所の意味を際立たせるのです。
もちろん、現代の住宅事情において余白は贅沢品かもしれません。限られた敷地、限られた予算の中で、「何もない場所」を確保することは容易ではありません。それでも私は、クライアントに対して「この余白が、あなたの暮らしを豊かにします」と伝え続けています。説得力があるかどうかは、完成した住宅が証明してくれることを信じて。
身体が知っている「間」の感覚
「間」を言葉で説明することの限界を、私は日々感じています。最終的に「間」は、頭で理解するものではなく、身体で感じるものだからです。
日本人が無意識のうちに身につけている「間」の感覚は、日常生活の中で育まれてきたものです。畳に座る、障子を開ける、縁側に腰掛ける——こうした動作の一つひとつに、「間」を感じ取るセンサーが埋め込まれています。
私が設計した住宅で、印象的な出来事がありました。引き渡しの日、クライアントのお母様(80代)が初めて新居を訪れたときのことです。玄関から上がり、廊下を歩き、リビングに入ったところで、彼女は立ち止まりました。そして「ああ、いい家だねえ」と一言。その瞬間、私は設計が成功したことを確信しました。
彼女は建築の専門知識など持っていません。天井高がいくつか、窓の面積がどれだけか、そんなことは気にもしていなかったでしょう。しかし、80年間で培われた身体的な感覚が、この空間の「間」を正確に捉えていたのです。
現代の住宅を検討されている方々にお伝えしたいのは、モデルハウスやショールームを訪れたとき、スペックや数値だけでなく、自分の身体がどう反応するかに注意を払ってほしいということです。「なんとなく落ち着く」「なんとなく居心地が悪い」——その「なんとなく」の中に、「間」の本質が隠れています。
現代住宅に「間」を取り戻すために
日本の現代住宅は、効率性と機能性を追求するあまり、「間」を失いつつあるのではないか。これは私が長年抱いてきた危機感です。
LDKという概念が標準化され、家の中から「曖昧な場所」が消えていきました。廊下は無駄として削られ、すべての部屋が明確な用途を与えられる。確かに効率的かもしれません。しかし、人間の暮らしは効率だけで成り立つものでしょうか。
「間」を現代住宅に取り戻すために、私が実践していることがいくつかあります。一つは、「通り抜けられる場所」をつくること。行き止まりではなく、複数の動線が交わる場所には、自然と「間」が生まれます。もう一つは、「見えすぎない」こと。視線がどこまでも通る開放的な空間は気持ちがいいものですが、すべてが見えてしまうと「間」は消えてしまいます。見える部分と見えない部分のバランスこそが重要なのです。
これから住宅を建てようとしている方、あるいはリノベーションを検討している方に問いかけたいことがあります。あなたが心地よいと感じる場所を思い浮かべてください。そこには、どんな「間」がありますか。壁と壁のあいだ、光と影のあいだ、静寂と音のあいだ——その「あいだ」を言葉にしてみてください。それがきっと、あなたの住まいに必要な「間」のヒントになるはずです。