記憶に残るホテル客室設計の秘密

記憶に残るホテル客室設計の
秘密

河添 甚
河添 甚 代表建築家 / KAWAZOE-ARCHITECTS主宰

ホテルの客室設計——滞在が記憶になる部屋とは

旅の記憶は、部屋の中で熟成される

ホテルに宿泊したとき、何年経っても鮮明に思い出せる部屋がある。一方で、つい先月泊まったはずなのに、どんな部屋だったかまるで思い出せないこともある。この差は一体どこから生まれるのだろうか。

私はこれまで、小規模なブティックホテルからリゾート施設まで、さまざまな宿泊施設の設計に携わってきた。その経験を通じて確信しているのは、「記憶に残る客室」には共通する設計原理があるということだ。それは豪華さや広さとは別の次元にある。むしろ、人間の感覚と空間の関係性を丁寧に紡いでいくことで生まれる、ある種の「親密さ」のようなものだと私は考えている。

今回は、ホテル客室設計の視点から、空間が人の記憶にどう作用するのかを考えてみたい。住宅設計にも通じる本質的な話になるはずだ。

「非日常」の正体——日常との距離感をデザインする

ホテルに求められる最も基本的な価値は「非日常」だと言われる。しかし、この言葉は曖昧で、設計者としては扱いにくい概念でもある。

私がホテル設計で常に意識しているのは、「日常からの距離感」を具体的な寸法や素材に落とし込むことだ。たとえば、自宅のベッドルームでは味わえない天井高。あるいは、普段は触れることのない素材の手触り。窓を開けたときに飛び込んでくる、見慣れない風景のスケール感。これらの要素が複合的に作用することで、宿泊者は「いつもと違う場所にいる」という感覚を身体で理解する。

ただし、ここで重要なのは距離感の「適正値」だ。日常から離れすぎると、人は落ち着かなくなる。ある程度の安心感、つまり身体が知っているスケール感は維持しながら、細部で驚きを仕込んでいく。このバランスこそが設計者の腕の見せどころだと思っている。

以前、瀬戸内のある島で手がけた小さなホテルでは、客室の基本寸法は一般的な住宅に近いものにした。しかし、窓の位置と大きさ、そして開口部から見える海と空の比率だけは徹底的に検討した。結果として、「どこか懐かしいのに、見たことのない景色」という感想を多くいただいた。記憶に残る空間とは、このような微妙な違和感の設計なのかもしれない。

身体が覚える——五感に訴える素材と光の選択

視覚的なデザインだけでは、空間は記憶に定着しにくい。これは神経科学的にも裏付けられていることだが、私たちの記憶は複数の感覚が同時に刺激されたときに、より強く形成される。

私がホテル客室で特に注力するのは、「足裏」「手のひら」「鼻腔」への働きかけだ。

足裏については、床材の選択が決定的に重要になる。朝、ベッドから降りたときに足が触れる床の温度と質感。これは一日の始まりの印象を大きく左右する。私は可能な限り、客室には無垢材か、質の高いタイル・石材を提案している。ビニール系の床材は施工性やコストでは優れているが、「記憶に残る滞在」という観点では明らかに不利だ。

手のひらについては、ドアハンドル、スイッチプレート、カーテンの生地、そしてバスルームの水栓。これらは宿泊者が必ず触れるポイントであり、素材の選択が空間全体の印象を無意識のうちに形成する。

鼻腔への働きかけは、木材の種類や仕上げのオイル、リネンの洗剤の香りなど、コントロールできる要素は限られるが、見落とされがちな重要事項だ。あるクライアントには、客室の壁の一部に地元産の杉板を使うことを提案した。その淡い香りが、宿泊者にとって「あの土地の記憶」として定着しているという話を後から聞いた。

窓辺という「舞台装置」

ホテル客室において、窓は単なる採光や換気の装置ではない。私は窓を「滞在体験の舞台装置」として捉えている。

優れた客室には、必ず「窓辺で過ごしたくなる仕掛け」がある。それは窓際に設えられた広めのソファかもしれないし、読書に適した一人掛けの椅子かもしれない。あるいは、腰掛けられる高さに設計された窓台そのものかもしれない。

私が設計する際には、まず「この部屋で宿泊者はどこに座って、どの方向を見るか」というシーンを複数想定する。ベッドの上からの視線、デスクからの視線、そして窓辺からの視線。それぞれの視点から見える景色と光の入り方を検討し、最も印象的な体験を提供できる配置を探っていく。

面白いことに、必ずしも「景色の良い窓」が最良とは限らない。むしろ、何気ない路地が見える窓、季節の移ろいを感じる植栽が見える窓、時間帯によって表情を変える光が入る窓——そうした「動きのある窓」の方が、記憶に残りやすい傾向がある。

照明計画——一日の物語を描く光

住宅設計でも同様だが、ホテル客室の照明計画は空間の成否を分ける重要な要素だ。特にホテルの場合、宿泊者は一日の中でさまざまな時間帯を客室で過ごす可能性がある。朝の目覚め、昼の休息、夕暮れのくつろぎ、夜の就寝前——それぞれのシーンに適した光の状態を、宿泊者が直感的にコントロールできることが理想だ。

私が避けているのは、スイッチ一つで全体を均一に照らすような照明計画だ。代わりに、複数の光源を分散配置し、それぞれを個別に調整できるようにする。ベッドサイドの読書灯、デスク上のタスクライト、天井からの間接光、窓辺を柔らかく照らすフロアスタンド。これらを組み合わせることで、宿泊者は自分だけの光の風景を作ることができる。

ただし、選択肢が多すぎると逆に混乱を招く。そこで私は「推奨される光のシーン」をいくつか用意し、照明器具の配置自体がその使い方を示唆するようにデザインしている。複雑な操作パネルで説明するよりも、空間そのものが使い方を語りかけてくる方が、体験としてはるかに豊かだと考えている。

余白と抑制——語りすぎない勇気

最後に、記憶に残る客室設計で私が最も大切にしていることを述べたい。それは「語りすぎない」ということだ。

設計者は往々にして、自分のアイデアを空間に詰め込みすぎる傾向がある。しかし、宿泊者が自分の物語を紡ぐためには、空間には「余白」が必要だ。すべてが完璧にデザインされ、隙のない空間は、確かに美しいかもしれない。しかしそれは写真映えする空間であって、必ずしも記憶に残る空間ではない。

記憶とは、その場所で自分が何を感じ、何を考えたかという内面の出来事だ。その内面の動きを許容する余白——何も置かれていない壁面、用途が限定されていない小さなスペース、あえて説明しない素材の選択——そうした「抑制」が、逆説的に空間を豊かにする。

私たちは日常生活で、無数の情報とデザインに囲まれている。だからこそ、旅先のホテルでは「何も主張してこない静けさ」が、かえって深い印象を残すのではないか。

あなたが最後に泊まったホテルで、最も印象に残っている瞬間は何だろうか。それは部屋のどこで、どんな光の中で起きた出来事だっただろうか。その記憶を辿ることが、良い空間とは何かを考える、最も確かな手がかりになるはずだ。

建築家・河添甚のプロフィール

河添 甚
河添 甚 代表建築家 / KAWAZOE-ARCHITECTS主宰

1977年、香川県生まれ。2002年に大阪工業大学工学部建築学科を卒業。2010年、河添建築事務所に参画し代表に就任。香川・東京の二拠点を構え、住宅から商業建築まで幅広い設計を手がける。

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