ヴィトラ・ファイヤーステーションを出た後、キャンパスを歩いた。

冬の午後。雨はまだ残っていた。木立の向こうに、家の形をした何かが積み重なって見えた。


VitraHaus外観——積み重なる切妻屋根とキャンパスの芝生

近づくと、それが建物だと分かった。

家の形——三角形の切妻屋根——が、12個積み重なっている。それぞれ違う方向を向いていて、互いにずれながら、上へ上へと伸びている。高さは15メートルほど。どこかの住宅街からそのまま抜き出してきた家が、奇妙な順番で積まれたように見える。

なぜこの形が可能なのか。「家」の形をした中空のコンクリートボックスが、互いの重さを利用して安定している。上の形が下の形を押さえる。かなり大きいものは18メートル以上のキャンタレバー(片持ち)になる部分もある。単純な積み上げではなく、構造的に計算された互いの干渉だ。形の奇妙さは、思考の正確さから来ている。

ヘルツォーク&ド・ムーロン、2010年。


木製デッキの半屋外空間——コンクリート天井と濡れた床板

建物の下に入ると、半屋外の空間があった。

コンクリートの天井が低く覆いかぶさっている。床は木のデッキで、まだ濡れていた。雨がそこで止まっていた。キャンパスの向こうに、冬枯れの木が並んでいる。

ヴィトラ・キャンパスには、ゲーリー、アンドー、ハディド、ザハ、フォスター、プルーヴェ——20世紀以降の建築の主要な思考が一つの敷地に揃っている。それはオーナーのロルフ・フェールバウムが、建築を家具と同じように収集した結果だ。この場所で建物を設計することは、そのコレクションの一点になることを意味する。ヘルツォーク&ド・ムーロンが「家」というアーキタイプ(原型的な形)を選んだのは、その文脈への応答でもあったかもしれない。

しばらく、そこに立っていた。


内部に入った。

インテリア——サーモン色の螺旋スロープと木の段差、三角妻窓の向こうにキャンパスのドーム

吹き抜けの空間に、曲線のスロープが走っていた。

サーモンピンクのような、くすんだ赤。スロープが螺旋状に上へ向かいながら、段差のある木の客席を囲んでいる。三角形の妻窓の向こうに、キャンパスの白いドーム屋根が見えた。

家の中にいる。でも、これは家じゃない。


インテリア——布製の展示が三角妻窓の光を受ける

各フロアを、上に向かって歩いた。

各「家」は、リビングのように使われていた。ソファ、テーブル、ラグ。Vitraの家具が並んでいる。でも、それが「家」の形の空間に置かれているので、展示というより、誰かの部屋に入り込んだような感覚がある。

窓は三角形。光が斜めに落ちてくる。

ヘルツォーク&ド・ムーロンの思考の核心は「形の意味」にある。素材でも技術でもなく、形が何を伝えるかを問う。「家」という形は、子どもでも高齢者でも文化を問わず読める記号だ。そのアーキタイプの持つ親密さを、大スケールで使う。それが奇妙に見えるのは、スケールが変わると意味が変わるからだ。


最上階のリビング——床から天井まで全面ガラスとライン河谷の眺め

上の階から、外が見えた。

ライン河谷が広がっていた。畑、葡萄畑、霞んだ丘。黒いテーブルの上に鉢植えが一つ。黄色いソファ。窓の向こうに、ドイツとスイスの境界が分からないまま続く冬の野原があった。

ここで暮らしたら、どんな感じだろう。一瞬、そう思った。


なぜ、家の形なのか。

Vitraは家具のメーカーだ。展示の方法は色々あった。でも、家の形の中に家具を置くことで、「暮らしの中で使われる家具」として見せることができる。家というのは、そういう装置だ。

ただ、積み重ねるのはなぜか。それは分からなかった。建物を出た後も、少し考えた。

一つの「家」だけでは、展示空間として小さすぎる。複数の「家」を並べるより積み重ねる方が、垂直の動線が生まれる。登りながら、フロアごとに「別の部屋」を体験する——そういう移動の設計が成立する。それが答えの一つかもしれない。


Shopフロア——三角妻窓と訪問者たち

地上に降りると、ショップになっていた。

人が多かった。家具を眺めている人、写真を撮っている人、コーヒーを飲んでいる人。三角形の妻窓から、外の空が見えた。

「家」の形は、誰にとっても読みやすい。子どもが最初に描く家の形。それを積み上げると、奇妙になる。奇妙になると、もう一度見たくなる。

近くにゲーリーの建物がある。あちらは形が爆発している。こちらは形が積み重なっている。同じキャンパスで、まったく違う問いに答えている。どちらも正直だと思う。

そういうことだったかもしれない。