広場に座れない人々のこと
街を歩いていて、ふと腰を下ろしたくなる瞬間がある。買い物の合間、誰かとの待ち合わせまでの時間、あるいは単純に疲れたとき。そんなとき、目の前に広場があるのに「座る場所がない」という経験をしたことはないだろうか。
私は建築家として公共空間に関わるたびに、この問いに立ち返る。広場は誰のためにあるのか。設計図の上では「市民のための開かれた空間」と謳われていても、実際に完成した空間が本当に市民を迎え入れているかどうかは、まったく別の話だ。
近年、都市部の駅前広場や再開発エリアのオープンスペースを歩くと、美しく整備されたタイル張りの地面が広がっている一方で、ベンチが極端に少なかったり、座面に仕切りが入っていて横になれない構造だったりする光景に出くわす。これは偶然ではない。設計段階で「滞留させない」という意図が明確に組み込まれている場合が少なくない。管理のしやすさ、治安への配慮、商業施設への動線誘導——理由はさまざまだが、その結果として広場は「通過するための空間」に変質してしまう。
設計者の意図と、使い手の現実
建築の設計において、私がもっとも大切にしていることのひとつに「使い手の時間に寄り添う」ということがある。住宅設計であれば、朝起きてから夜眠るまで、その家族がどのように動き、どこで立ち止まり、どんな気分で窓の外を見るか。その想像力が設計の骨格をつくる。
公共空間にも同じことが言える。しかし公共空間の難しさは、使い手が不特定多数であるという点だ。子どもが駆け回る姿、高齢者がゆっくりと歩く姿、ベビーカーを押す親、スケートボードを楽しむ若者、ホームレスの方が雨をしのぐ姿——すべてが同じ広場に現れうる。設計者はこのとき、誰を「想定する使い手」に据えるかという選択を迫られる。
正直に言えば、この選択は設計者だけの判断ではない。発注者である行政や開発事業者の意向、地域住民の要望、管理運営のコスト——多くの力学が働く中で、設計者は「あるべき姿」と「求められる姿」の間で葛藤する。私自身、何度もその狭間で悩んできた。
排除のデザインという静かな暴力
建築やデザインの世界では「排除のデザイン」あるいは「敵対的デザイン」という言葉がある。特定の行為や特定の人々を排除するために、意図的に空間や什器を設計することを指す。ベンチの座面に肘掛けを等間隔に設置して横臥できないようにする、花壇の縁を傾斜させて座れないようにする、スケートボードができないよう段差に金属の突起をつける——こうした手法は、一見すると「きれいに整備された空間」に溶け込んでいるため、多くの人は気づかない。
私はこうしたデザインのすべてを否定するつもりはない。安全上の配慮が必要な場面は確かにある。しかし、排除が設計の主目的になってしまったとき、その空間は公共空間としての意味を失うと考えている。「誰でも来てよい場所」のはずが、「望ましい人だけが来る場所」になる。その境界線を引く権限を、設計者や管理者が無自覚に握ってしまうことの危うさを、私たちはもっと意識すべきだろう。
居場所をつくるという設計行為
では、どうすればよいのか。私が実務の中で心がけているのは、「曖昧な居場所」をつくるということだ。
明確にベンチとして設計するのではなく、腰掛けられる高さの段差や、寄りかかれる壁面、木陰の下に自然と人が集まるような地形的な仕掛けをつくる。こうした要素は、特定の用途を強制しない。子どもにとっては遊び場になり、高齢者にとっては休憩場所になり、若者にとってはおしゃべりの舞台になる。使い方を限定しないことで、多様な人々がそれぞれの仕方でその場所を「自分の居場所」と感じられるようになる。
ヨーロッパの古い都市を歩くと、広場の設計が必ずしも精緻ではないことに気づく。石畳の段差、教会の前の階段、噴水の縁——それらは「座るために設計された」わけではないが、結果として何百年も人々の居場所であり続けている。意図的な設計を超えたところに、公共空間の本質があるように感じることがある。
住宅と公共空間は地続きである
こうした公共空間の話は、住宅を検討されている方にとって遠い話に聞こえるかもしれない。しかし私は、住宅の設計と公共空間の設計は地続きだと考えている。
たとえば、住宅の玄関先にちょっとした段差やベンチを設けるだけで、近所の方が立ち話をする場所が生まれることがある。庭先の植栽が道行く人の目を楽しませ、低い塀越しの挨拶が日常の風景になる。住宅は私的な空間であると同時に、街に対して何かを差し出す存在でもある。その「差し出し方」をどう設計するかが、街全体の豊かさに影響を与えると私は信じている。
逆に言えば、完全に閉じた住宅が並ぶ街路は、公共空間としての質が極端に低くなる。高い塀、閉じたシャッター、植栽のない外構——それらは防犯上の理由で選ばれることが多いが、街全体としては「誰も居たくない通り」をつくり出してしまう。皮肉なことに、人の目がなくなった通りのほうが、むしろ防犯上のリスクは高まる。
あなたの家の前は、誰かの居場所になりうるか
公共空間のデザインは、建築家や行政だけの仕事ではない。ひとりひとりの住まい手が、自分の家と街との関係をどう考えるかによって、都市の風景は大きく変わる。
私がこれまで住宅を設計する中で、施主の方と繰り返し対話してきたのは「この家は街に対してどんな顔をしますか」という問いだ。自分たちの暮らしを守りながらも、街に対して少しだけ開いた場所をつくること。それは大げさなことではなく、軒先を少し深くする、外構に一本の木を植える、塀の高さを10センチ下げる——そうした小さな判断の積み重ねだ。
広場は、特別な場所にだけ存在するものではない。あなたの家の前の数メートルの歩道も、隣家との間の細い路地も、見方を変えれば「小さな広場」になりうる。自分の住まいが街に対して何を差し出せるか——もしこれから家を建てることを考えているなら、間取りや内装と同じくらいの熱量で、この問いに向き合ってみてほしい。その小さな意志の集積が、私たちの街を、本当の意味で「誰のためでもある場所」に変えていく力になると、私は確信している。