所有しない、という設計——場所と固定の概念が溶けていく時代に
博多の屋台が教えてくれること
博多の屋台は、夜になると路上に現れる。昼間は何もなかった場所が、夕暮れとともに飲食の場になる。カウンター数席、軒先に吊るされた提灯、湯気の立つ鍋——それだけで、そこは確かに「場所」になる。便所ラーメンと呼ばれる店がある。公衆トイレの脇に構えた小さな屋台で、そこでラーメンを食べる。衛生的にどうかという議論はさておき、パブリックとプライベートの境界が溶け合った、日本固有の空間文化がそこにある。
管理されていない。許可されているわけでもない。行政が整備したわけでもない。ただ、人間の欲望が自然に滲み出て、場所をつくっていた。公共の隙間に、私的な時間が宿っていた。
その感覚を、今の時代に重ねて考えることがある。あの「滲み出る力」は、今どこへ向かっているのか、と。
広場にヒュッテを建てるということ
昨年の冬、サンポート高松の多目的広場で、香川で初めてのクリスマスマーケットが開かれた。木のぬくもりあふれるヒュッテが並び、グリューワインの湯気が広場に漂い、スケートリンクの光が夜を染めた。(→設計・申請の舞台裏はスタッフブログに)
弊社はそのヒュッテの設置を担当した。
ヒュッテは建築物として扱われる。仮設であっても、基礎を持ち、屋根を持つ構造物である以上、仮設許可を取得し、建築確認を下ろす必要があった。建築家として、その申請を一通り背負う仕事だった。
そこで改めて気づいたことがある。ルールは「固定された場所」を前提に設計されている。店舗は建物であり、建物は基礎を持ち、基礎は地面に固定される。その前提の上に、食品衛生法も、建築基準法も、道路占用許可も積み上がっている。「期間限定」「仮設」「移動」——そういうものは、制度の上では常に特例として扱われてきた。特例には、時間と手間がかかる。
それでも、ゼロだった広場が何かになった瞬間の手応えを、私は確かに知っている。
「所有から共有へ」は地殻変動である
キッチンカーは、この時代の象徴だと思う。
車体という移動体が店舗になる。場所を所有しない。QRコードさえあれば決済が完結する。PayPayの二次元バーコード一枚が、レジも、端末も、固定の店舗さえも不要にした。今日は立ち飲みスタンド、明日はスイーツのポップアップ、週末はクラフトビールの店——固定しないことを前提に設計された商業形態が、都市の中に静かに増殖している。
そしてこの構造変化は、飲食だけの話ではない。
Zoomで会議をする。オフィスに行かなくていい。コワーキングスペースを時間単位で借りる。自分のデスクを持たなくていい。Spotifyで音楽を聴く。CDを棚に並べなくていい。Netflixで映画を観る。DVDを所有しなくていい。Airbnbに泊まる。ホテルを建てなくていい。車はカーシェアで呼ぶ。やがて自動運転が普及すれば、駐車場という「固定の場所」も消えていく。
服はレンタルでいい。工具はシェアでいい。畑はシェア農園でいい。駐車スペースはakippaで時間貸しすればいい。医者にはオンラインで診てもらえばいい。勉強は動画で、どこにいてもできる。
あらゆる領域で、同じ構造変化が起きている。「所有すること」が前提だったものが、「使うときだけ使う」に変わっていく。固定されていた場所への依存が、一つひとつ解体されていく。
これを可能にしたのは、デジタルインフラの成熟だ。QR決済、クラウド、高速通信——場所への依存を不要にするテクノロジーが、静かに、しかし確実に社会の前提を書き換えている。これは偶然の一致ではない。時代の構造変化だ。「所有から共有へ」は、理念やスローガンではなく、すでに起きている地殻変動である。
固定しないからこそ、器の質が問われる
ここで、建築家として一つの問いが浮かぶ。
固定しないためにこそ、器の質が問われるのではないか。
何にでもなれる空間だからこそ、その空間の設計が都市の豊かさを決める。クリスマスマーケットが開かれ、週末には青空市が立ち、平日の昼にはキッチンカーが並ぶ——そういう広場が機能するためには、「何もない」ことへの高度な設計が必要だ。舗装の素材、排水の計画、電源の位置、日当たりと風の抜け、人の流れ。すべてが、そこに「何か」が生まれることを前提に考えられなければならない。
高松アリーナが世界に誇れる建築を目指すなら、その前に広がる多目的広場が何を受け止められるかが問われる。キッチンカーが来られるか。ポップアップが生まれる余白があるか。人が自然に滲み出てこられる隙間があるか。管理するための境界線ではなく、滲み出ることを許す余白が、設計されているか。
博多の屋台が持っていた「滲み出る力」を、現代の都市空間に宿らせることができるか。それが問われている。
「器」とは何か。それは使い方を限定しない空間のことだ。何にでもなれる、ということは、何の個性も持たない、ということではない。むしろ逆だ。真に良質な器は、それ自体に強い空間の質を持ちながら、その中で何が起きても受け止められる懐がある。素材の選択、寸法の取り方、光の入れ方——設計者の仕事は「何かを置く」ことではなく、「何かが置かれたくなる場」をつくることだ。ヒュッテが20棟並んだあの広場で、私はそのことを改めて実感した。設計されていたのは「何もない」状態ではなく、「何かが生まれる準備」だった。
建築しない、という選択
そしてもう一つ、より根本的な問いがある。
建築しない、という選択がある。
新しく建てることが、常に最善ではない時代になった。既存の空間をシェアする。使われていない建物をリノベーションで転用する。コワーキングを使えば、オフィスを建てなくていい。所有しないことで、むしろ豊かになる選択がある。
建築家が「建てないことを提案する」——それは職業的な自己否定のように聞こえるかもしれない。しかし私はそう思わない。建てるべき理由を問い直すこと、固定する必然性を疑うこと、それこそが今の時代における誠実な設計の姿勢ではないかと思う。
建築家が「建てないことを提案する」価値はどこにあるか。それは、建てる場合と建てない場合を同じ判断軸で比較できることにある。工務店に頼めばリノベーションの答えが返ってくる。ハウスメーカーに相談すれば新築の答えしか返ってこない。建築家は、両方の選択肢を等価に並べた上で、あなたの暮らしに何が本当に必要かを問い直すことができる。
建てないことを勧めることは、仕事を失うことではない。それは、信頼を得ることだ。
所有から共有へ。固定から流動へ。建てることから、使いこなすことへ。
場所の意味が変わっていく。建築の問いも、変わっていく。私たちは今、その変わり目の上に立っている。