ホテルロビー設計論——到着体験の美学

ホテルロビー設計論
——到着体験の美学

河添 甚
河添 甚 代表建築家 / KAWAZOE-ARCHITECTS主宰

ホテルロビーの建築論——到着の体験をデザインする

「着く」という行為が持つ意味

旅先のホテルに到着した瞬間のことを、あなたは覚えているだろうか。車を降り、エントランスをくぐり、ロビーに足を踏み入れる。その数十秒の体験が、その後の滞在全体の印象を決定づけることがある。私はこれまで、いくつかの宿泊施設の設計に携わってきたが、この「到着の体験」をどうデザインするかという問いは、常に設計の核心にあった。

住宅設計においても玄関は重要だが、ホテルロビーの設計はそれとは異なる複雑さを持っている。不特定多数の人々が、さまざまな期待や疲労を抱えてやってくる。ビジネスマンもいれば、新婚旅行のカップルもいる。一人旅の人もいれば、三世代の家族連れもいる。それら全員に対して、「ここに来てよかった」と感じさせる空間をつくること——それがホテルロビーの設計に求められる本質的な課題である。

シークエンスとしての到着体験

優れたホテルロビーは、単なる「受付のある部屋」ではない。それは一連のシークエンス(空間体験の連なり)として設計されている。

私が以前訪れた京都のあるホテルでは、車寄せから館内に入るまでに、三つの異なる空間を通過する設計になっていた。まず、ひさしの深い車寄せで雨や日差しから守られながら車を降りる。次に、やや薄暗いエントランスホールを通過する。そして最後に、大きな開口部から中庭の緑が見えるロビーに出る。暗から明へ、閉から開へ。この対比が、到着の瞬間に小さな感動を生んでいた。

建築家は、人の動きを時間軸で捉える。Aという地点からBという地点へ移動する間に、何を見せ、何を感じさせるか。それを「動線設計」という言葉で片付けてしまうのは惜しい。私はむしろ「体験の演出」と呼びたい。映画監督がカット割りを考えるように、建築家は空間のシークエンスを考えている。

天井高という見えない力

ホテルロビーの設計で、私が最も神経を使う要素の一つが天井高である。

天井高は、人の心理に直接作用する。低い天井は親密さや落ち着きを、高い天井は開放感や非日常性をもたらす。ホテルロビーでは、この効果を意図的に操作することが重要になる。

例えば、エントランスから入ってすぐの部分は、あえて天井を抑える設計をすることがある。これは「圧縮」の空間である。そして、チェックインカウンターのある本ロビーに入った瞬間、天井が一気に高くなる。この「解放」の瞬間に、人は無意識のうちに深く息を吸い、肩の力を抜く。旅の緊張がほどけていく感覚——それを天井高の変化によって演出するのである。

ただし、やみくもに天井を高くすればいいというものでもない。人間のスケール感を逸脱した空間は、かえって居心地の悪さを生む。私が手がけたある小規模なホテルでは、ロビーの天井高を4.5メートルに設定した。吹き抜けにすることも検討したが、そのホテルが目指す「隠れ家的な親密さ」には、適度な包まれ感が必要だと判断したからだ。

光と素材が語りかけるもの

ホテルロビーに入ったとき、私たちは無意識のうちに多くの情報を受け取っている。光の質、床を歩くときの感触、壁の素材が発する空気感。それらが総合されて、「このホテルはこういう場所だ」という印象が形成される。

自然光の扱いは特に重要だ。昼間は太陽の光をどう取り入れ、どう遮るか。直射日光が入りすぎると落ち着かない空間になるし、かといって閉鎖的すぎると陰鬱な印象を与える。私は、トップライトや高窓から間接的に光を落とす手法をよく用いる。光が天井や壁に一度反射してから室内を照らすことで、柔らかく均質な明るさが得られる。

素材選びにおいても、視覚だけでなく触覚や聴覚を意識している。例えば、床材一つとっても、大理石と木とカーペットでは、歩いたときの音がまったく違う。大理石のコツコツという硬質な音は格式を感じさせ、厚手のカーペットの無音に近い感触は静謐さを演出する。木のフローリングはその中間で、温かみと適度な緊張感を両立できる。

以前設計した温泉地のホテルでは、ロビーの床に地元産の安山岩を使った。表面に自然な凹凸を残した仕上げにしたため、足裏から伝わる微妙な起伏が、まるで川原を歩いているような感覚を呼び起こす。「この土地に来た」という実感を、床材一つで伝えようとした試みだった。

機能と情緒の間で

ホテルロビーには、相反する要求が同居している。効率的にチェックインを処理する機能性と、旅人の心を解きほぐす情緒性。スタッフの動線と宿泊客の動線を整理する合理性と、「この空間にいたい」と思わせる魅力。

私は、この矛盾を矛盾のまま抱えることが大切だと考えている。機能性だけを追求すれば、空港のチェックインカウンターのような無機質な空間になる。情緒性だけを追求すれば、実用に耐えない自己満足の空間になる。両者のバランスを取りながら、どちらかに完全には振り切らない。その「あいだ」にこそ、優れたホテルロビーは成立する。

最近は、従来のフロントカウンターを廃止し、スタッフがタブレットを持って客に近づいていくスタイルのホテルも増えている。これは動線設計の根本的な変化を意味する。固定されたカウンターがなくなれば、ロビーの空間構成はより自由になる。しかし同時に、「どこに行けばいいかわからない」という不安を生むリスクもある。新しい運営スタイルに対応しながら、空間としての安心感をどう担保するか。これは現在進行形の設計課題である。

住宅に通じる思想

ここまでホテルロビーについて語ってきたが、実は、その思想は住宅設計にも通じている。

玄関を開けた瞬間に何が見えるか。靴を脱いでからリビングに至るまでに、どのような空間体験があるか。家族が毎日繰り返す「帰宅」という行為を、どのような建築的演出で迎えるか。規模は違えど、考えるべきことの本質は同じである。

私がホテルロビーの設計で学んだことは、「到着」という体験は設計によって豊かにも貧しくもなるということだ。それは数十秒の出来事かもしれない。しかし、その数十秒が積み重なって、空間の記憶は形成されていく。

あなたが毎日帰ってくる家の玄関は、あなたをどのように迎えているだろうか。そこには、どんな光があり、どんな素材があり、どんな空気が流れているだろうか。もし何かを変えられるとしたら、あなたは何を変えたいと思うだろうか。

建築家・河添甚のプロフィール

河添 甚
河添 甚 代表建築家 / KAWAZOE-ARCHITECTS主宰

1977年、香川県生まれ。2002年に大阪工業大学工学部建築学科を卒業。2010年、河添建築事務所に参画し代表に就任。香川・東京の二拠点を構え、住宅から商業建築まで幅広い設計を手がける。

NEXT STEP

ホテル・宿泊施設の
設計相談を承ります

到着の瞬間から記憶に残る空間づくりを。ロビー設計からインテリアまで、一貫したコンセプトでご提案いたします。

コラム一覧へ