サヴォア邸に立つという体験

フランス・ポワシーの静かな丘陵地に佇むサヴォア邸。
図面として理解していた「近代建築の象徴」は、現地で初めて“身体に届く建築”として立ち上がってくる。
コルビュジエが提示した「住む機械」という言葉は、
決して冷たく機能だけを追求したものではなく、
人が自由に生きるための“解放”の装置としての建築ではないか──
そんな感覚が、建物の内部を歩くほどに強まっていく。
ピロティの“空白”がもたらす自由

サヴォア邸の1階は、建築で最も語りにくい「空白」が支配している。
柱だけが立ち、壁を最小限に抑えたこの空間は、用途が明確に決められていない。
しかしその曖昧さこそが、
建築が「人の自由と未来を信じている証」に思えた。
決めすぎないことで、
そこに立つ人の想像力や、風・光・時間を受け入れる余白を生む。
建築は“決定の連続”として語られることが多いが、
サヴォア邸は“意図的に決めない”という強い意思に満ちている。
ランプに導かれる「垂直の散歩」

特徴的なスロープを上ると、
視界は徐々にひらけ、外光は角度を変え、内部と外部はゆっくりと交差していく。
階段ではなくスロープで上階へ誘う動線は、
一歩一歩が身体的体験となり、
“建築を歩くこと”そのものが空間の理解につながる。
この体験を通じて、設計とは
単なる平面や断面の組み合わせではなく、
時間と動きのデザインであることを改めて実感した。
スケルトン=インフィルとドミノ・システムとしてのサヴォア邸
サヴォア邸は、ル・コルビュジエが構想した「ドミノ・システム」が住宅として具現化した建築でもある。
柱とスラブだけで構成されたフレーム=スケルトンがまずあり、その内側に生活のためのインフィルが挿入される。
構造体(スケルトン)は、
・ピロティによる自由な1階平面
・スロープでつながる垂直方向の動線
・屋上庭園まで含めた“立体的な余白”
を支えるフレームとして働いている。
一方で、内部の間仕切りや家具、開口の切り方といったインフィルは、
生活の仕方や時代とともに変化し得る“可変部分”として扱われているように見える。
変わらない骨組みと、変わり続ける内部との関係。
このスケルトン=インフィルの考え方が、サヴォア邸のあらゆる場所に貫かれている。
つまりサヴォア邸は、
「ひとつの住宅のデザイン」であると同時に、
骨組みとインフィルを分離して考える“仕組みとしての住宅”のプロトタイプとして位置づけられるのではないかと思う。
工業化住宅と“芸術”のあいだにある緊張
もともとドミノ・システムは、
工業化による大量生産を前提とした住宅の標準モデルを目指した提案でもあった。
均質なスラブと柱のグリッドを繰り返し、
その上に暮らしを載せるという考え方は、
効率と再現性を重視した“工業製品としての住宅”に近い発想と言える。
一方でサヴォア邸は、そのプロトタイプが
極めて個別性の高い敷地と施主のために
徹底的にチューニングされた結果でもある。
大量生産のモデルでありながら、
仕上がりは一点物の“芸術作品としての住宅”として語られている。
ここには、工業化と芸術性のあいだにある緊張がはっきりと存在している。
大量供給を前提とした仕組みを考えながら、
実際にはひとつの家に対して
細部まで異常なまでの密度で思考を注ぎ込むという矛盾。
その矛盾こそが、
今日に至るまでサヴォア邸が「作品」として扱われる理由の一つかもしれない。
効率と普遍性を求める工業化の思考と、
目の前の一件に対する執念深いまでのこだわり。
その両方を抱えたまま設計された住宅だからこそ、
単なるモデルを超えて“芸術”と呼ばれる領域に踏み込んでいるように感じた。
屋上庭園に込められた“空と暮らす”思想

最上階の屋上庭園は、コルビュジエの「都市と人間」の思想が最も純度高く現れる場所。
空と地平線だけが視界を満たすこの空間は、
屋内と屋外、人工と自然の境界を曖昧にし、
“閉じた家”ではなく“開いた生活”を提示している。
ここに立つと、
住宅とは単なる機能の器ではなく、世界とつながるための窓である
というメッセージをはっきり感じ取ることができる。
今の住宅設計にどうつながるのか
現代の日本の住宅は、敷地条件・防火規制・密集地など、
多くの制約のなかで設計される。
しかし、サヴォア邸が教えてくれるのは、
制約を前提としながら、どれだけ“自由の気配”を残せるかという問いだ。
・構造とインフィルを分けて考える視点(スケルトン=インフィル)
・光の取り入れ方
・動線の曲線やリズム
・余白のある間取り
・内部と外部の“揺らぎ”のデザイン
これらはどの敷地であっても設計に応用できる。
サヴォア邸は、近代建築の象徴である以前に、
“住むことを肯定する建築”として、今も学ぶべき価値があると強く感じた。
おわりに
サヴォア邸を訪れることは、
単に歴史的名作を見に行く旅ではなく、
建築家としての原点に立ち返る旅だった。
図面では伝わらないスケール感、
光の密度、時間の流れ、風の抜け方──
すべてが“建築は体験であり思想である”という事実を
静かに、しかし力強く語りかけてくる。
建築に携わる者として、この場所を訪れたことは大きな意味を持つ。
フランス建築視察の中でも、最も深く心に残る時間だった。